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日本史とともに歩む、京都の神社仏閣 第4弾

日本史とともに歩む、京都の神社仏閣 第4弾

 皆さん、こんにちは、こんばんは。本日は円町校の江島が ”日本史とともに歩む、京都の神社仏閣” の第4弾をお送りさせていただきます。

六波羅蜜寺

 京阪電車の清水五条駅から北東へ徒歩約10分のところに位置する寺院で、あまり聞きなじみのないお寺かもしれませんね。

 平安時代、951年に空也という高僧が創建したものとされています。空也上人は、日本史学習者からすれば、かなりの有名人ですね。10世紀に入ると、現世(現実世界)ではなく「来世」、つまりは死後の世界にこそ幸せな世界(極楽浄土)が待っているとする考え方が流行しました。これを浄土教というのですが、この思想を人々に広めていったのが空也上人なのです。「いったいどこで布教するのが最も効率が良いのだろう」と考えた結果、彼は布教の場所として「京都の朝の市場」を選びます。たくさんの人々の前で、彼は「来世で往生するには念仏が必要なんだ」と説きます。朝のラジオ体操と言わんばかりに、「毎日念仏」を目標にしていたのです。興味津々な庶民を前に、その思想は瞬く間に広まっていき、浄土教は一大ブームを巻き起こします。そのような姿から、彼は「市聖(いちのひじり)」と呼ばれるようになるのです。空也は972年にこの世を去りますが、鎌倉時代になって、彼の功績を賞賛すべく彫像が作られ、今でも六波羅蜜寺にいらっしゃいます。

 六波羅蜜寺は1183年、源平合戦のさなか、火を放たれ本堂を除く全てが焼失してしまいますが、1221年の承久の乱後、この地に作られたのが、なんと六波羅探題なんです(この名前は聞いたことあるはず)。六波羅探題は京都の警備を強化するための、鎌倉幕府「関西支部」のようなイメージだと思っておいてください。煌びやかなイメージはないけれど、歴史的にはとても意義のある寺院の紹介でした。

蓮華王院 三十三間堂

 続いては、三十三間堂です。東山七条に位置し、京都女子高校から程ない距離にある有名な寺院です。正式名称は蓮華王院、その本堂を「三十三間堂」と通称されています。長いお堂内陣の柱間が33もあるということから、このように呼ばれるに至ったそうです。時代は平安時代後期、当時「院政」という形で大きな権力を誇っていた後白河上皇が、彼のボディガードを務めていた平清盛から資材援助を受けて創建した寺院であり、院政期における彼らの絶大なパワーを象徴する建築物で、国宝にも指定されています。まあ彼らはこの後、仲違いをおこしちゃうんですけどね。ちなみに平家の邸宅は、先に紹介している六波羅蜜寺の近くに位置しており、六波羅殿と呼ばれていました。それゆえ、平清盛の異名にもなっていたんです。

 最大の魅力は、本堂に安置されている、金色に輝く1001体の千手観音像ですね。中央に位置する千手観音座像は鎌倉時代、湛慶という有名な彫刻家の作品で、残る1000体のうち、124体は平安期の尊像なんだそうです。それらが並ぶ姿は言葉を失うほどです。また、観音像には、必ず会いたい人に似た像があるとも伝えられているそうなので、是非会いに行ってはいかがですか。

最後に

 今日は、「六波羅」という共通点を持つ寺院の紹介でした。

 それでは、本日は以上です。お疲れさまでした。

投稿者:江島 祥人

  • 役職
    英語科主任/英語科講師
  • 講師歴・勤務歴
    7年
  • 出身大学
    大阪市立大学経済学部
  • 特技・資格
    特に目立ったものはないです
  • 趣味
    音楽鑑賞
  • 出身地
    京都府
  • お勧めの本
    武器としての決断思考

受験生への一言
初めて出会う事柄に対して、出来る限り「考えて」みてください。自分の価値観と照らし合わせてみて、ああだこうだと「腑に落ちる」まで考えてはじめてそれが知識となり、皆さんの力となります。