こんにちは。京都医塾教務の重富です。ブログをご覧いただきありがとうございます。
はじめに
京都医塾に通っている生徒さんは朝8時から夜10時まで、自分の夢に向けて自身の最大限の力をもって勉強に立ち向かっています。そんな生徒さんの熱意を私も間近に見ているわけですが、いろいろな悩みも聞きます。その中で多いのが「肩ががちがちなんです…」とか「腰が痛いんです…」とか身体の不調に関することです。そういう時にはやはり運動が大事。とはいえそんな時間はない。
そんな時に推奨しているのが散歩です。
このようにマップも作っています。京都医塾は京都の中心部、四条烏丸にあります。このマップで紹介している場所以外にも少し歩けば多くの寺院や史跡など見どころがたくさんあります。
私のブログでは「京都医塾walk」と称して、京都医塾周辺にある見どころをたくさん紹介していければと思っています。ということで早速行ってみましょう。
京都医塾walk第2弾。今日は五条大橋を散歩していきたいと思います。
五条大橋とは
五条大橋は鴨川に架設された橋の一つで名前の通り五条通に架かる橋です。京都医塾がある京都市の中心部、四条烏丸から歩いて20分くらいで到着します。散歩には最適の距離と時間ですね。公共交通機関を使うなら、京阪電車の清水五条駅が便利です。駅を出ると五条大橋は目の前です。
橋が架かる五条通は京都市街地を東西に貫く主要道路で、西側は桂川に架かる西大橋から、東側は東大路通を越えると少し北側にそれて清水寺に至ります。また、ほとんどの区間で国道に指定されており、堀川五条交差点から東は国道1号、烏丸五条交差点から東が国道8号、西が国道9号になります。国道1号は烏丸五条より東で国道8号と、烏丸五条から堀川五条で国道9号と重複しています。このように京都市内の交通においても、国内の広域交通においても非常に重要な道路で昼夜問わず交通量が非常に多いです。
この通り、非常に幅が広い道路です。これは前回の御池通の時に紹介した建物疎開の跡です。御池通はオフィスビルが目立っていましたが、五条通はどちらかというと、スーパーやコンビニ、飲食店など生活に必要な施設が目立ちます。
源義経と弁慶の像
さて、五条大橋といえばこの源義経と弁慶の像。童謡「牛若丸」で「京の五条の橋の上 大のおとこの弁慶は 長い薙刀ふりあげて 牛若めがけて切りかかる」と謡われている「五条の橋」がここです。
義経と弁慶は2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも活躍していましたね。この作品では二人の出会いのシーンはなかったですが、義経が主人公の作品だとよく出会いのシーンとして「五条の橋」での決闘が描かれるので、ご記憶にある方もおおいのではないでしょうか。実はこの二人の出会いには諸説あり、『義経記』には最初に出会ったのは五條天神社、決闘をしたのは清水寺とあります。今日の義経のイメージはこの『義経記』によって形作られたところがありますが、出会いのシーンだけは別ですね。
なぜでしょう。昔から判官贔屓という言葉があるように義経は前近代から人気のある人物で、様々な芸術作品に描かれています。「五条の橋」のシーンも室町時代に成立したとされる謡曲「橋弁慶」をはじめとして、江戸時代の浮世絵などにもよく描かれており、それがイメージとなって定着してきたものと思われます。実際のところはどうだったのでしょう。想像が膨らみますね。
ところで彼らが出会った時代、現在の五条通は平安京の六条坊門小路といわれる通りでした。
ん…六条…?…そうなんです。ここは五条大橋ですが、義経と弁慶が出会った「五条の橋」はここではないのです。当時の五条通、すなわち平安京の五条大路は現在の松原通にあたります。五条通の北を東西に走っている通りです。そして現在の松原橋こそが義経と弁慶が出会ったとされる「五条の橋」なのです。
豊臣秀吉との関係
この「五条の橋」を渡って松原通を東へまっすぐ進むと清水寺に突き当たります。松原通の東大路通から清水寺門前の間は清水道とも呼ばれる、清水寺への参詣道です。これこそが橋がこの地にあった理由の一つです。つまり、平安京の人々が清水寺に参詣するための大事な橋だったというわけです。
ではなぜ五条通が平安京の時代より一筋南にずれているのかというと、豊臣秀吉が「五条の橋」を現在の五条通へと移設させたからです。そのために通りの名前も移ってしまった、というわけです。豊臣秀吉は実は現代の京都に大きな影響を与えた人物です。京都市街地には秀吉の痕跡がたくさん残っています。そのあたりの話もいずれ出来たらよいですね。
いかがだったでしょうか。一つの橋でもたくさんの歴史を秘めています。
さすがは京都という感じですね。それではまた次の機会にお会いしましょう。