こんにちは、国語科の内海です。今日は、「現代文の設問に答える」ことの本質に迫ってみたいと思います。
現代文の「落とし穴」
これまで、現代文を苦手とする生徒から以下のような “苦情” を多く受けてきました。
「たったこれだけの文章で、『筆者の考え』とかわかるわけないやん!」
この指摘は、ある意味ではもっともらしい “苦情” です。実際に日常場面を振り返ってみても、「言語だけのやり取り」では他者の考えていることを100%キレイに言い当てることは、ほぼ不可能に近いです。なぜなら、この世に自身と何から何まで考えていることが一致する他者など存在しないからです。
では、「不可能に近い」とまで言い切った「筆者(他者)の考えの推測」を取り扱う現代文という科目が、どうして「数学」や「理科」と並んで、受験生の力を測定する科目の一つとして認められているのでしょうか? ここに、現代文が苦手な方々が見落としている「落とし穴」があるわけです。
現代文での話し相手
実は、前項の冒頭に記した「『筆者の考え』とかわかるわけないやん」という “苦情” の内に、現代文の「落とし穴」が潜んでいました。この “苦情” を口にする生徒は長文を読解する際、ほぼ間違いなく「筆者と会話」しようとしています。これ自体は、決して誤っていることではありません。しかし、「筆者と会話」するという発想 “しか” 持っていないことが、非常に危険です。その理由は、主に以下の二つです。
1) 現代文の本文は、著書の一部でしかない。
現代文で出題される課題文(本文)は、原著の一部の抜粋にすぎません。一方、筆者はその原著一冊の分量をもってして、自身の「考え」を表現しています。いや、もはや筆者の「考え」は、一冊の本でさえ十分な量ではないぐらい壮大なものです。にもかかわらず、現代文の課題文程度の抜粋量から、そんな壮大な筆者の「発想」にたどり着こうとするなんて、無謀の極みです。
「筆者の考え」を言い当てることの “断念” が、現代文における闘いを優位に進める第一歩です。
2) 筆者は、作問者ではない。
もう一つの落とし穴は、「本文の筆者が設問を作っているわけではない」ということです。作問者は、問題として抜粋した箇所のみで正答を導き出せる問題しか作りません。一方、現代文が苦手な生徒はこの前提を見過ごしてしまい、本文に “書かれていないこと” にまで言及してしまいます。時々、バラエティ番組などで「国語の試験に採用された長文の筆者がその問題を解いたところ、惨憺たる結果だった」という場面が面白おかしく取り上げられますが…その理由がこの現代文の前提にあったわけです。つまり…
原著の背景知識を持つことと、設問に正しく答えられることとは必ずしも一致しない、という現代文の特徴を理解しておくべきです。
最後に
どうでしたか? 上述の「落とし穴」にはまってしまった方が結構いたのではないでしょうか? もしはまっていたとしても、焦らなくても大丈夫です。その事実に気付けたことが、現代文にとっては非常に大きな糧となります。
機会があれば、上記の「落とし穴」をうまく避ける方略についても語りたいと思います。