皆さん、こんにちは。本日は円町校の江島が「日本史とともに歩む、神社仏閣」第11弾をお送りさせていただきます。今回は、京都を離れ、 “鎌倉(神奈川県)特集” です。
鶴岡八幡宮
本日1つ目に紹介するのは、清和源氏のホームである「鶴岡八幡宮」です。清和源氏というのは、源氏の中でも清和天皇の血を引く系統で、一般に「源氏」という場合はこの清和源氏を指すと思っておいて大丈夫です。(個人的に)源氏歴代ナンバーワンの実力者である、源義家が、京都の岩清水八幡宮で元服の儀を行い、東北地方で起こった事件(前九年合戦・後三年合戦)を落ち着かせ、帰路に就くなかで、彼の持つパワーを鎌倉の地に宿した、それが鶴岡八幡宮なんですね(ということを、第8弾でも紹介していましたね)。絶対的勢力を誇った源氏ですが、その後、平氏にその座を奪われてしまいます。しかし、源頼朝を中心に逆襲をかけ、ついには平氏滅亡へと追い込みます。かの有名な源平合戦、治承・寿永の乱(日本史プレーヤーはこっちで覚えてね)です。
源氏が勝利した要因として「東国武士の活躍」は非常に大きかったと思います。これって、先祖の義家が築いてくれた、いわば「縁」なわけです。後三年合戦が終結したあと、東国の武士たちは「いつかこの恩を返してやるから」と思っていたでしょうね。そのときが、ついに訪れた!彼らを味方につけた頼朝は、平氏を追い詰めていきます。源平合戦が終わった後も、頼朝は「征夷大将軍」の称号を欲しがり、あくまでも東国の地にこだわります。征夷大将軍って実はそれほど高級な役職ではないのですが、頼朝が就いていたことが理由で、これ以降、幕府を開く人物は必ず征夷大将軍の地位に就くことが慣習となります。すごいカリスマ性ですね。頼朝の息子、鎌倉3代将軍の源実朝が殺害されてしまう現場にもなるなど、悲しき思い出もありますが、源氏にとって、鶴岡八幡宮はいろんな意味で大切な場所になっているのです。
円覚寺
続きまして、鎌倉周辺にある円覚寺の紹介です。臨済宗大本山のお寺でって、、、臨済宗とんでもないですね。さすがは幕府イチオシの宗派なわけですが、それもそのはず、たびたび話題に挙げております五山・十刹の制で「鎌倉と京都それぞれに臨済宗寺院のベスト5を設定した」というお話を覚えていらっしゃるでしょうか。その鎌倉五山のナンバー2に位置する寺院が、この円覚寺なのです。
1282年、ときの鎌倉幕府8代執権・北条時宗(蒙古襲来のときの執権です)が、宋より招いた無学祖元という僧に、この寺院を与え、開山したのがきっかけです。臨済宗は、もとは中国禅宗の1つで、それを栄西が日本流にアレンジして伝えられたもの。中国のお坊さんに任せるのが理に適っています。日本に伝わって間もない臨済宗の存在をアピールするため、この時期は特に頑張っていた頃だと思います。
円覚寺でもっとも有名な建物は「舎利殿」でしょう。鎌倉時代に中国から伝えられた、禅宗様(唐様)という様式を用いて建てられたもので、最も美しい建物として国宝に指定されています。もちろん、鎌倉文化を代表する建造物です。数年前、鎌倉を訪れたときに、「舎利殿は絶対に見たい」と意気込んで円覚寺に赴いたのですが、舎利殿への入り口が封鎖されており、遠くからしかその姿を拝むことが出来ず、非常に悔しい思いをしたことがあります。てな感じで、私個人としましては、なんとも微妙な思い出しかない、円覚寺でした。
本日は以上です。お疲れ様でした。