皆さん、こんにちは。本日は円町校の江島が、「日本史とともに歩む、京都の神社仏閣」の第5弾をお送りさせていただきます。
平等院 鳳凰堂
京都府宇治市に位置する、京都でもかなりの知名度を誇る寺院で、「十円硬貨の表側」に描かれていることでおなじみの場所ですね。平安時代後期の、1052年、摂関政治(天皇をお助けする摂政・関白という地位につき、政権を握ること)で当時絶大な権力を誇った、藤原頼通(藤原道長の子)が、自身の別荘を寺院としたもので、もっとも有名な建築物である「鳳凰堂」は、翌年1053年に落成しました。正面から見た姿が「鳳凰が羽を広げている姿」に見えることから、この名が授けられたそうです。
この鳳凰堂にいらっしゃる本尊は「阿弥陀如来像」で、浄土教(詳しくは第4弾を見てね)信仰における祈りの対象となっているものです。「阿弥陀如来様の住んでいる極楽浄土に行きたいです!」って祈るイメージだと思っておいてください。11世紀になると、浄土教は「末法思想」という考え方によってより一層普及していくことになります。お釈迦様がなくなった1000年後には、「末法」という世を迎える。末法の世では、釈迦の教えを実行する人は誰もおらず、現世にもはや価値を見出せないって思想なんです。そりゃ浄土教との相性抜群ですよね。ちなみに末法を迎えるのは1052年とされており、平等院建造の年と一致しているんです。当時の世相を反映して建立された、国風文化を代表する建築となっています。ついでに、父の藤原道長も法成寺というお寺を立てたのですが、現存しておらず、法成寺跡として京都御苑(京都御所)西側に記念碑がおかれています。もし現存していれば、京都最大級の寺院として残っていたそうで、摂関期の藤原氏は日本で最大の権力を誇っていたことは間違いないでしょう。最後に、頼通は「宇治関白」道長は「御堂関白」というニックネームがつけられています。
天龍寺
続いては天龍寺というお寺です。京福電鉄(通称「嵐電」と呼ばれています)嵐山駅からほど近くの場所に位置する寺院です。観光気分で渡月橋付近を散策していると出会えると思います。もともとは平安期に別の寺があったり、上皇の御殿として利用されていた場所なのですが、1339年、かの有名な足利尊氏(室町時代初代将軍ですね)が創立、夢窓疎石という僧を開山として開かれたのが、この天龍寺です。時代はちょうど南北朝の動乱期、尊氏と敵対関係にあった後醍醐天皇(建武の新政で有名な人)の冥福を弔う目的があったようです。後醍醐天皇にあまり重用されなかった尊氏ではありますが、心底憎んでいたわけじゃないのかなと個人的には思います(「敵を弔う」って展開は、日本史を学んでいると意外に出てくるものなんです)。
ところが当時、天龍寺の造営費用を捻出するのにかなり困っていたようです。このままでは埒が明かないので、尊氏の弟である足利直義は、夢窓疎石の助言を得て、元という国との貿易を再開することになります(元との交流は、元寇依頼途絶えていたので「再開」なのです)。この貿易での利益を造営費用に充てることで1345年、ようやく完成にこぎつけました。ちなみに、この交易で使った商船のことを「天龍寺船」と呼びます。
幕府イチオシ、臨済宗(第3弾で言っていましたね)の大本山に位置する寺院であるだけでなく、さらに足利義満(室町第三代将軍)の時代に、「臨済宗の寺院を組織化・ランキング化しよう」という制度(五山・十刹の制)が本格化し、天龍寺はなんと京都五山のナンバーワンの地位を与えられることになります。すごいお寺なんですよ。
実は「別格本山」という、全ての臨済宗寺院のさらに頂点に立つところがあるのですが、それはまた次の機会に。
本日のところは以上にしておきます。お疲れ様でした。